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2000年7月号掲載 よしだともこのルート訪問記

第64回 インターネット界に貢献する人材を輩出した奥山研
〜豊橋技術科学大学 情報工学系分散システム研究室〜

 今回は、豊橋技術科学大学注1(以下、豊橋技科大)情報工学系分散システム研究室(通称、奥山研究室、以下、奥山研)を訪ね、奥山徹(おくやまとおる)先生から、豊橋技科大の大学全体のネットワーク構築に関する話をお聞きしました。その後、奥山研の千葉靖伸(ちばやすのぶ)さん(取材時、4年生)にも加わっていただき、奥山研のネットワークに関する話を中心にお聞きしました。
 さらに、スペシャル企画として、東京地区に住む、奥山研OB注2の方々とお会いする機会も持ちましたので、記事の最後にそのときの会話をお届けします。
 なお、今回の記事の取材は、2000年3月に行われました。4月から奥山先生が朝日大学注3に移られたため、豊橋技科大の奥山研は、3月末で幕を閉じています。

豊橋技術科学大学へは、2004年12月号掲載 の記事の取材でも行っています。 そちらの記事の内容がより新しいものですので、あわせてお読みください。

■物質工学の研究室からスタート

よしだ(以下Y):奥山先生は、豊橋技科大の大学全体のネットワークの構築にもかかわってこられたそうなので、その話からお願いします。

奥山先生(以下O):古い話から順番にすると、この大学にイーサネットのイエローケーブルを最初に引いたのは、1984年だったと思います。私の出身の研究室は、物質工学という化学系のところだったのですが、そこの佐々木慎一先生(豊橋技科大の前学長で、去年の暮れに亡くなられた)の研究室にイーサネットのケーブルを引いたのが、この大学で最初だったはずです。
 当時はまだ、TCP/IPではなくて、XNS(Xerox Network System)プロトコルベースで、ファイル共有をやりました。データゼネラルから出ていたXodiacなんてプロトコル、もう知っている人は少ないでしょうけど、それがXNSをベースにしていた。それ以前は、RS-232Cベースでマシンをつないで、データをファイル転送していた時代です。情報工学の研究室にイーサネットが引かれ始めたのは、たしか1986年でしたから、それよりも2年ほど早く、化学をやっている研究室にケーブルを引いたというわけです。

Y:化学の研究室のご出身だったとは……。

O:大学時代は化学系のエキスパートシステムをAPLという言語で書いており、その研究室ではとても多くのコンピュータを使っていました。その時代、岡崎市の分子科学研究所(以下、分子研)という国立の研究機関が、日立の大型計算機(HITAC M-200H)をタダで使わせてくれていました。その計算機を使うために、大学の研究室の電話代を1年間に56万円も使ってしまいました。それが学部の4年生のときで、修士に入った年には「電話代がたまらんから、そこに行って使え」といわれて、旅費とお弁当を渡されて、岡崎に通いました。それが1980年の話です。
 これはミニコンの時代ですよ。私が最初に使ったパソコンは沖電気のif800注4という名前の8086のマシンでした。それより前は、NECのTK80(トレーニングキット80)というもので、赤外線分光系のインタフェースを書いてました。当時、「Tiny Basicで書かれたStarTrekのプログラム」という幻の名作があったのですが、それをどうしてもTK80に移植したくて、TK80のRAMの上にアセンブラを書いていました。

Y:歴史上の人物みたいですね。ベル研で、ゲームがやりたくてUNIXを作ってしまった人たち注5を思い出しました。

O:そういうことは珍しいことではなくて、当時は誰でもやっていたんですよ。
 でも、大学院を出るまで本業は化学でした。岡崎の分子研でやっていたのは実験化学で、実験装置の出力をコンピュータに取り出して、それを分子科学研究所の大型計算機に送ってシミュレーションしていました。ずっと実験をやりつつプログラムも書いていましたし、環境作りもやっていました。

図1 豊橋技術科学大学奥山研究室(dsl.ics.tut.ac.jp)ネットワーク構成図(2000年当時)
豊橋技術科学大学奥山研究室ネットワーク構成図

■本格的に学内ネットワークの構築に携わる

O:修士課程修了後、私はそのまま分子研に就職したのですが、佐々木先生が「豊橋技術科学大の情報処理センターに、助手の空きがあるからこないか」といってくださり、1985年1月に大学に戻ることになりました。分子研には先生としてではなく技官として就職していたので、そのままでは学生時代に借りた奨学金を返さなければいけなくなるということで、佐々木先生がひっぱってくださったのです。
 それ以降1990年8月までの間、情報処理センターの助手として、本格的に豊橋技科大の学内ネットワークの構築にかかわるようになります(「豊橋技術科学大学情報処理センターの歴史」参照)。
 1985年当時、情報処理センターは汎用機を使っていました。そこにIBMがパソコンを40セット寄付してくれることになりました。「それなら、全セットにイーサネットカードも入れてほしい」といったのですが、当時はイーサネットカードは非常に高価なものでしたから「それはムチャだ」といわれて、結局3枚だけもらい、1台をファイルサーバーにして、あと2台をMSネットワークのファイルサーバーにして、実験を始めました。
 そうこうしているうちに、世の中がイーサネットの時代になってきました。情報処理センターでも、まずは汎用機を捨てて、当時としては先進的だった「クライアント/サーバーモデル」に移行しようという話になりました。「そのためには、SunOSが使えるUNIXワークステーションが欲しいよね」ということを、当時、こちらにいた助手仲間注6で話すようになりました。
 そして、情報処理センターの中の、日本データゼネラル(NDG)のミニコンとUNIXワークステーション何台かとパソコンとをすべてイーサネットでつなぎました。情報処理センターの中は全館つないでいたので、当時としては先進的だということで、システムの概要を「コンピュータ&ネットワークLAN」という雑誌注7に投稿して掲載されました。
 その後、「センター内だけでは、どうしようもない」と、学内全体をネットワーク化したいと考えていたところ、予算がもらえたので学内LANを構築しました。FDDIのはやり始めだったので、アーテルというFDDI準拠の光ファイバーを学内に引き回しました。それが学内LANの最初ですね。「光ブリッジまではセンターが買うから、あとは各学科でがんばってね」という体制をスタートさせました。
 学内はこのようにネットワーク化できたのですが、外部との接続は相変わらず9600bpsのN1プロトコルの回線注8だったんですね。どうやったら速い回線がもらえるかを考えたんですが、当時はどこも9600bpsだったんですよ。それでも64kbpsの線が欲しいと、文部省に相談にいったら、文部省の担当者には「これから先はネットワークが重要になるので、いいんじゃないですか。ただ初めてのケースなので大蔵省に対する説明資料を書くように」といわれました。そこで64kbpsが必要な理由と回線が速くなればどういうことができるのかという資料を、A4判で15枚ぐらい書いた結果、全国の国立大学の中で初めて、64kbpsのデジタル回線で外部(名古屋大学)と接続できる予算をもらえることになりました。学術情報センターから2つの回線をもらってきたうちの1つを、IP on X.25注9で当時のJAIN Consortiumにつなぎ、もう一方を名古屋大学につなぎ、当時としては画期的な、外部とのマルチホームを実現させました。
 X.25がなかなかつながらなかったときに、SLIP注10の線で名古屋大学に入って、そこで調整するという作業を、延々と続けました。だからマルチホームの威力をまざまざと見ていたはずなんですが、私が情報処理センターから抜けたのと同時に、諸般の事情で外部とのラインは一本になってしまい、マルチホームではなくなりました。うちの研究室は当然マルチホームなんですけど。
 1989年ぐらいというのは、まだ.junetドメインで、それを.ac.jpに変える必要がありました。ちょうど、DNSの日本国内網が整備され始めて、DNSサーバーは、大学のものは立ち上がったけれども、各研究室のサブネットは立ち上がっていないし、まだ.junetでした。「さぁどうしよう?」ということで、DNSサーバーにアクセスできないような学内のサブネットのルーティングは、片っ端から切っていったのです。当時はそういう強引なやり方が許されたんですよ。切れても死活問題ではなかったですから。
 その後、学内ネットワークを全部FDDI準拠製品に変えたとか、ATMを入れたとか、外部との回線を当初の64kbpsから1.5Mbpsに変えていったという当たりは、予算がちゃんともらえて順調に進んでいったので、あまりおもしろい話はありませんね。

豊橋技術科学大学情報処理センターの歴史(http://www.cc.tut.ac.jp/center/intro.htmlより抜粋)
1981年 4月 センターの準備室の設置
1982年 1月 システム(MELCOMCOSMO800III)を導入
3月 名古屋大学大型計算機センターと専用回線接続を開始
1985年 3月 N1ネットワーク接続を開始
1989年 2月 システム(NDGMV20000)を導入
3月 学内LAN運用を開始
1993年 3月 SINETへの接続を開始
1994年 3月 システム(DEC3000他)を更新し、キャンパス情報ネットワークを敷設
1998年 3月 システム(SGI、DEC)更新

■奥山研の強靭なネットワークの全貌

Y:ではいよいよ、奥山研注11を紹介していただけますか。

O:この研究室がスタートしたのは、1990年8月に私が講師として情報処理センターから移ってきたときでした。正式名称は「分散システム研究室(Distributed Systems Laboratory、略してDSL)」です。これは研究室の主要な研究テーマが、ネットワーク上での分散化されたソフトウェアシステムを扱っているからです。主要な研究テーマは次のものです。
  • インターネットの高次活用の研究
  • 分散/並列データベースシステムの設計と実装
  • メインメモリデータベースシステムの設計と実装
  • データベースの開発と運用
 この研究室は佐々木慎一先生の化学情報学研究室の傍流であり、純粋な情報工学の研究室としてスタートしたわけではありません。
 最初は、研究室の環境作りから始めました。サンのワークステーションを2台買って、データベースシステムを構築する注12ためにSybaseを購入しました。サンのワークステーションは、IPCとかSLCの時代です。
 その後、奥山研は3つの部屋になっているので、それをイエローケーブルでつなぎました注13。当初、研究室の学生は、パソコンのネットワークOSが使えないかと、つまりNetWareやLAN Managerが使えないかと、いろんなことを試したようです。その結果、「やっぱりTCP/IPだよね。TCP/IPならUNIXだよね。PC UNIXだよね」という流れになったのだと思います。

Y:奥山研の強靭なネットワークについて、ネットワーク図を見ながら、詳しく紹介していただけますか。

O:点線の内側が奥山研(dsl.ics.tut.ac.jp)のネットワークで、外が大学です。現在の大学のネットワークは、私にいわせるとお粗末です。FDDI(100Mbps)とATM(622Mbps)とは、たった1つのルーターでつながっておらず、しかもCiscoの4500という安いルーターが使われています。FDDIを捨ててATMだけに乗り換えて、ATMのスイッチと回線を強化するという青写真を描いていたのですが……。
 うちの研究室の内側からは、FDDIもATMも経由せずに、外部に出ていくルーターに直接つながっている、謎の線注14(100BASE-FX)があります。学内ネットワークがダウンしたときには、一番外にあるルーターが見えなくなるので、学内のどこで切れているかを両方から探りたいときに、この線が必要になるからです。
千葉さん(以下、C):ここには、外部のISPにISDNでつながっている線もあります。このISPに、奥山研OBを大量に派遣しているといううわさもあります。

Y:えっ? あ、就職してるんですね。

C:外からPHSや電話で受けられるものも、合計3本ありますから、便利ですよ。

O:これは研究用に必要性があったからです。千葉君の卒業研究が、こういう回線を使うものでした。

C:ISDN回線を使って、小学校や中学校間を直接つなごうというものでした。「この学校とこの学校をつなぎたい」と指示すると、勝手にISDNでつないでくれて、ルーティングもやってくれていて、直接つながるのです。

O:いまの豊橋の小学校や中学校のネットワークは、いったんプロバイダにつながるシステムなので、プロバイダ上の制限がかかってしまうのです。ある学校とある学校が交流学習をするケースだと、学校どうしがプロバイダを経由させずに直接つながる方が便利だよね、ということで考えたのが、そのシステムでした。実際に3つの学校を結ぶ実験を成功させました。
 この図にあるpapilioというマシンは、研究室のネットワークと、学内のネットワークと、モデムと謎の線と、というふうに1台からいろいろなところにつながっています。恐怖の「NIC4枚差し」です。これ作るのに、千葉君、苦労してたよね?

C:研究よりこちらを作る方に時間がかかってましたね。

■「教育とインターネット」に関する活動

Y:奥山先生は、小中高の先生方を中心とした「教育とインターネット」の活動に、積極的に参加されていますが、昔からですか?

O:そうですね。JUNET時代注15、豊橋技科大は東海地区のハブをやっていましたので、東三河や静岡の研究機関がここにつないでいました。名古屋地区の研究機関は、名工大につないでいる。豊橋技科大からはNTTに直接つないでいたのですが、名工大は違うところにつないでいる。すると何が起こるかというと、ここから名古屋地区に送るメールがいったん東京に行き、それから名古屋に届く。
 それはいやなので、JUNETの配送網を東海地区でルーティングしようという話をしていました。当時ですから、UUCPのポーリングなんですが、それを東海内でクローズするために、会員から集めたお金で回線を用意して実現させたのが「東海インターネット協議会」でした。いまの地域ネットワークの走りですね。それが1989年から1990年頃の話です。
 その後、私は、1993年の夏から1年ほど、イギリスのUniversity of Sheffieldに、文部省在外研究員として長期出張してて、大学にいなかったんですね。帰った直後に、南山大学の後藤邦夫先生から呼び出されて「100校プロジェクトというのがスタートするらしい。その受け皿を東海インターネット協議会が受けないといけないらしい」と聞きました。
 そして、100校プロジェクトの学校に選ばれた「名古屋市立西陵商業高等学校」の教諭の影戸誠や、100校プロジェクトの学校には選ばれなかった「滝学園」の教諭の栗本直人たちと始めたのが、「東海スクールネット研究会」でした。1994年12月にスタートしています。
 そして、「東海スクールネット研究会」として名古屋を中心に活動しているうちに、自分の地域、私の場合は豊橋を中心とした東三河地区の学校が、名古屋の学校とかなり落差があることに気が付き愕然としました。1997年に「東三河スクールネット研究会」注16を作ったのは、それが理由です。
 発足当時、東三河地域にもコンピュータとネットワークの活用を目指した先生方が存在しましたが、それを支援する活動は皆無でした。また、100校プロジェクトを契機としてインターネットの教育利用が始まり、そのためのサポート組織作りが急務とも考えていました。よしださんが2000年3、4月号でルート訪問していた、三重県菰野高校の浦田治先生も、「東海スクールネット研究会」に参加しつつ、地元の仲間と研究会を立ち上げているのは、同じような理由からだと思いますよ。

Y:はい。浦田先生は「自分の学校だけ突っ走るのではダメで、地域のほかの学校もいっしょに」ということをおっしゃいました。

O:東海は高校の先生中心ですが、東三河は小中の先生中心で、キャラクタが違います。「東三河スクールネット研究会」では何を始めたかというと、小中学校の義務教育期間を通じた、情報処理教育カリキュラムの検討です。授業で使うことを真面目に考えようと、情報教育カリキュラム案を作りました。
 それと、学校をどうネットワーク化していくかの2本立てですね。私はこちらの、インターネットをどうつなぐかっていう方の役割を分担しています。
 ネットデイ注17実施のほかに、インターネットへの接続支援やネットワークサーバーの貸し出しとメンテナンス、インターネット接続モバイルキットの貸し出し(PHSで接続可)などを行っています。これらは、いずれも学校の生徒・児童にネットワークやコンピュータをどのように使わせるかの実践を行うために実施しており、行政主導による接続が実現したときに、有効な活用ができるようにする準備段階と位置付けています。

Y:公立の先生には転勤などがあるから学校でサーバーを持つのは無理だっていわれることが多いですが。

O:学校の先生が、授業を持ちながらネットワークを引いて、管理もすることは私も無理だと思っています。それで私は「サポーター至上主義」という表現をするんですが、学校のネットワークのサポートを、地域のボランティア協会と連携して、積極的な住民参加の運動として定着させることを目指しています。
 地域の中に、いかに企業とかサポーターを多く作るかが眼目です。地域社会の人間が手伝わなければ学校なんて業者のいいなりです。適当にサーバーを持ってこられて何か設定はめちゃめちゃで、「クライアントを追加してほしい」といったら「追加できません」なんて、いい加減なことをいわれたりと、いろいろな問題点がありました。

Y:でも、業者というのは企業だから、営利目的でやっているわけで、ネットワークの技術力がなくても仕事はしたいわけで。

O:企業が営利を追求するのはいいんですよ。追求するならまともにやってほしいだけです。
 素人集団のボランティアの方が技術力があることはみんな分かっています。でも、ボランティアにできて、専門家であるべき業者に、できないわけないだろうって論理で企業を叩くのが考えだったんです。

Y:でも、その論理って企業にとってつらいですよね。「NTサーバーを使って、ここをこう設定するように」とだけ教えられて、それで動かないといけない会社員って多いと思うんです。勉強の時間を与えられずに、ほんの少しだけの知識で、仕事をさせられている。プライベートでは全然違う趣味や家事を持った会社員に、週末にまで勉強会に参加したり書籍や雑誌やWeb上の情報を入手し続けることは、要求できないと思うんです。

O:私も最初からそれを求めてるわけではなくて、エンジニアにスキルをつけさせるために研究会に参加してほしいのです。
 私たちのボランティア団体に入って、そのサポート組織の中に入って腕をみがけばいいわけですよ。それを会社に持ってかえって自分のキャリアにすればいいと思いますよ。
 私は、ボランティア集団の活動によって企業の営利活動の邪魔をする気はさらさらなくて、できれば企業側もそれを学習の場にするというね、そういう還元の仕方もあっていいんじゃないかと。最近、会員の企業側と学校側とがプロジェクトを組んでいろんなことをする話がでてきたので、そういう意味では成果は見え始めたと思います。
 ただ、こんな例もあります。優秀なエンジニアがこの研究会に入ってきて、目覚めたわけですよ。それで一生懸命勉強して技術を身に付けると、自分でビジネスチャンスが見えるようになり、会社をスピンアウトしてしまったのです。企業には、それは人材流出になるわけですから、そこを少し苦慮しています。
 このような活動を約3年間続けてきて、一応の成果をあげたと思っています。今後3年のテーマは、インタラクティブコミュニケーションなんです。具体的には「バーチャル・スクール」を立ち上げようと。いま、小学校が52校あるので53番目の小学校を仮想空間での小学校として、そこでは大人も子供も何でもありの発言ができるようなのを狙いにしています。

Y:日本国規模、世界規模の「バーチャル・スクール」を作る話はたまに聞きますよね。

O:そう。あれを大きなコミュニティでやってしまうと大変なので、地方都市という、共通の話題のある小さなコミュニティからスタートしたいと考えています。私は分散システムが根付いてしまっているので、核になるシステムはあとからつなげばいいと思います。いきなりでっかいのを作ってしまうと破綻するんですよ。
 もちろん、将来的には3Dを含めた仮想空間だとか、超高速ネットワークができることを視野に入れながら、いまのうちから学校間のインタラクティブコミュニケーションが、もっと気楽にできる環境を作ろうと思います。

Y:素敵ですね。

O:まぁ、かっこいいことをいってきましたが、「東三河スクールネット研究会」を始めたきっかけは、自分の息子が行っていた小学校が、インターネットにつながっていなかったことです。そもそも、そんな親馬鹿な動機です……。

Y:それを思っても、何もできなくていらいらしている親の話はよく聞きますね。

O:教育委員会に話にいくとか、あるいは絶大な力を持っている先生に話をするとか、こそこそと、あの手この手を使うとか……(笑)。でも結局、自分の子供の小中学校には、入らなかったんです。ある程度水を向ける努力まではしますが、その学校の先生たちが「自分たちがやりたいから協力してください」という態度を持つまでは待つというポリシーは絶対に変えなかったので。無理やり押し付けられても、いい結果は生まれないことは、これまでの経験で分かっていましたから。
 「東三河スクールネット研究会」の数々の活動は、ネットデイ活動として集約され、地域のボランティアを巻き込んだ、学校と地域社会との新しい連携のあり方として、これからも注目を集めていくでしょう。地域活動としての教育支援を根付かせて、教員が教育しやすいコンピュータやネットワーク環境を整えることが急務と感じています。

Y:なるほど。今日は研究室におじゃまして、長時間、いろいろと話していただきありがとうございました注18

東京での奥山ファミリーとの密会

 豊橋技科大の奥山研訪問と前後して、東京で奥山先生とごいっしょする機会注19があり、その夜に東京地区在住の奥山研OBの方に会う機会を作っていただきました。集まってくださったのは以下の4名の方々です。
  • JEの作成などで有名な真鍋敬士さん(以下、M)
  • The X-TrueType Server Projectなどで有名な渡邊剛さん(以下、G)。現在アステック・eコマース勤務。
  • IPv6などで有名な宇井隆晴さん(以下、U)。現在JPNIC勤務。
  • 宇井さんの新妻の未歩さん注20(以下、未歩さん)。
 そこに奥山先生と私が加わり、6人で食事をしながら雑談することになりました。

■日本のインターネットに貢献する人材の輩出……

Y:奥山研OBの皆さんは、奥山研では、どのような研究をされていたのでしょうか。

O:研究、したかぁ?

G:「奥山研は変わった人材を輩出してきた」ということで、いいんではないでしょうか。

O:「日本のインターネットに貢献する人材」ってことでしょう。研究に関しては、とくに制約することもなく好きなことをしていいというと、みんな本当に好きなことをしてくれました。真鍋氏は、奥山研ができた最初の年に入ってきた学生でした。

Y:奥山研の関係者で、大学の外にDSL.GR.JPドメインのサーバーを持っておられるそうですね。誰が取ったんですか。

O:ドメインを取ったのは私ですが、首謀者はこの辺ですよ。団体名は「分散システム研究会」です。

G:使用目的は、主に奥山研関係者が外部で何かしたいときに使うものです。こういうのが1つあれば便利ですよ。レンタルサーバーなんですが、tracerouteしてもらえば分かるように、ネットワーク的にすごくいいところ(基幹に近いところ)にいます。

O:メンバーは奥山研OBの希望者とその直接の知り合い5名と、うちの家族全員の合計、約20名です。これを「奥山ファミリー」と呼んでください。

G:勝手に……(一同、笑い)。奥山研の面々でない場合は、その直接の知り合い、つまりホップカウント、ワンホップまでと決めています。20名程度のユーザー数だと、レンタルサーバーはよい選択だと思います。

Y:運営費用はどうされていますか。

O:分担制です。初年度は、大人料金と普通料金と学生料金があり、なぜか、当時豊橋技科大職員だった2名(奥山、外山)が大人料金でした。現在は廃止されています。

U:初年度は初期投資などいろいろとお金がかかったのですが、そのときは学生と先生という立場だったので、「先生はたくさん出してください」といったら、出すといってくれたのでこのような料金負担体系ができました。

Y:先生、さすが。

未歩さん:先生、だまされてませんか。

O:だまされたフリをしているだけですから、大丈夫です。特権を維持するために。

Y:皆さんは、このマシンで、何をされているのですか。

O:みんなルートとして、好き勝手なことをしています。奥山研の者は半分ぐらいがルートですね。

U:一応、分担は決まっています。この3人だと、ニュースサーバー、メールサーバー、Webサーバーといった具合です。

O:「みんなが楽しめればよい」というポリシーのマシンですから、新しいソフトをインストールして環境を作るなど、いろんなことをやりましたね。

U:「みんなが……」じゃなくて「自分が……」では?(一同、笑い)

G:私はDSL.GR.JPドメインで、重要なMLをいくつか運用しています。個人の日記もここに置いています。

O:私も自分のWebページをここに置いています。趣味に関することなども。

Y:奥山先生の趣味注21というのは?

O:虫と魚と、最近では植物も。野外で生きていくための話なら、いくらでもできます。

M:私が一番、DSL.GR.JPドメインを使ってないですね。

O:そのわりに、真鍋氏はいつも入ってる注22。あやしい……。

その後よしだは、最近、雑誌などで紹介される注23ことの多い、OST(Open Source Toys)注24Project の人形たちを鞄から出し、未歩さんと盛り上がる。

O:ルート訪問記の連載がこれからも続くよう応援注25していますので、がんばってください。

Y:ありがとうございます。私の方からも、奥山ファミリーの皆さんのますますのご活躍をお祈りしています。

ネットワークゲームをするためにネットワークを整備
注1 豊橋技術科学大学
1978年(昭和53年)4月に第1回入学式が挙行された国立の大学院大学。特徴は、学部から大学院修士課程までの一貫教育を行っていることと、少人数教育によって指導的技術者の養成を行っていること。約2000人の学生に対して、約400人の教職員がいる。所在地は愛知県豊橋市。詳しくは、http://www.tut.ac.jp/参照。

注2 奥山研OB
真鍋敬士さん、渡邊剛さん、宇井隆晴さん

注3 朝日大学
1971年(昭和46年)4月に岐阜歯科大学として創設され、1985年に名称が朝日大学に改められた私立大学。経営学部が新設され、1987年には法学部が新設された。所在地は岐阜県本巣郡。詳しくは、http://www.asahi-u.ac.jp/参照。2000年4月から、奥山先生は、この大学の経営学部情報管理学科の助教授。

注4 if800やTK80
これらのパソコンを含む、古いパソコンの紹介ページが存在した。「古パソコン補完計画」(http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa.htm)このページの作成者の最終目標は、古いパソコンの博物館を作ることで、古いパソコンを持っている方からの提供を希望されているそうだ。

注5 UNIXを作ってしまった人たち
UNIXの起源は1969年に米国のAT&Tベル研究所で、デニス・リッチーとケン・トンプソンという2人の研究者により作られた、ファイル・システムや簡単なプロセス管理を持ったOSにある。彼らは、DECのPDP-7というミニコンを、彼らが熱中していたスペース・トラベルというゲームの専用機にしてしまおうと考えて、最低限ゲームが動作する機能を持ったシンプルなOSを作成したといわれている。

注6 当時、こちらにいた助手仲間
「いまは、東京大学情報基盤センターの助教授になってる中山雅哉や、大阪大学出身で、いま、名古屋大学にいる片山正昭が、当時、豊橋技科大にいました」とのこと。

注7 「コンピュータ&ネットワークLAN」という雑誌
オーム社から毎月20日に発行されている月刊誌。創刊は、1983年(昭和58年)5月。詳しくは、http://www.ohmsha.co.jp/cnlan/参照。

注8 N1プロトコルの回線
学術情報センターが運営していた、大学間ネットワークの独自プロトコルが、N1だった。この方式は各大学の計算機センター・情報処理センターなどの大型計算機を相互に接続することには成功したが、独自プロトコルであったために、いくつもの制約が指摘されていた。

注9 X.25
X.25は、ITU-TSSが勧告している可変長のパケット交換用ユーザーネットワーク間インタフェース規格。個々の専用線にかかる費用を必要とせずに、高速度デジタルリンク上で、リモート機器が相互通信できる。

注10 SLIP(SerialLineInternetProtocol)
非同期シリアル回線でネットワーク機器の間をIP接続するための、PPPに似たプロトコル。RFC1055で規定されている。

注11 奥山研
分散システム研究室。

注12 データベース
システムを構築する奥山研は、1992年8月頃に、中山雅哉氏(現、東大大型計算機センター助教授)と共同で、JPNICのwhoisデータベース構築のボランティア活動を始めたそうだ。

注13 イエローケーブルでつなぎました
奥山先生は、赤い色のイエローケーブルが使いたかったそうだが、施設の担当者に「先生、赤はダメですよ」といわれて、青い色のケーブルを使うことになったそう。

注14 謎の線
名目上は、学内のネットワーク管理のための線であるが、奥山研のメンバーはこの線にバイパスして使っているため、FDDIやATMにトラブルが起こって混乱しているとき、奥山研の者は気が付かず、学内から「ATMが変なんですけど……」という電話がかかってきて気が付くという状況が生まれていたらしい。

注15 JUNET時代
JUNET(JAPAN UNIX/University NETwork)は、1984年に日本でスタートした、UUCPベースの実験ネットワーク。海外ネットワークとのリンクも確立していた。1994年に発展的解消をとげ、現在のWIDEにいたる。そのためJUNET時代は、1984年からの約10年を指す。

注16 「東三河スクールネット研究会」の参加
地区研究会の参加者は、東三河の中核都市である豊橋市を中心として、豊川市、新城市およびその周辺市町村(含む、奥三河地区)さらには、豊田市、湖西市などの東三河の周辺市町村におよび、会員数約80人(小中高校教員60名、大学教員10名、地元企業など10名)。基本方針は次の5項目。
(1)教員間のコミュニティ作りと運営
(2)研修会の企画・開催
(3)情報教育のための教材・授業計画の開発
(4)情報教育の実践・評価
(5)情報ネットワークの教育機関への導入に関する検討
詳しくは、http://www.mikawa.gr.jp/参照。

注17 ネットデイ
ネットデイとは、地域住民を含めたボランティアグループの手で校内のネットワーク化やインターネット接続を支援する試みで、群馬県のインターネットつなぎ隊や高知県のD-Dayなどの活動は有名です。

注18 ありがとうございました
取材後、奥山先生、千葉さん、兵藤昌彦さん(取材時、M2)、原田哲志さん(取材時、B4)と私とで、インドカレーのお店、豊橋市曙町の「アーチャーラ」という店に行った。兵藤さんは、「ドメイン名の国際化(Internationalized Domain Name)」の研究の日本の一人者の一人。JPNICの以下のページで、兵藤さんの「ドメイン名の国際化」に関する修士論文が読めるようになっていた(当時)。
また、当日、お会いした奥山研の三上響さん(取材時、M2)は、完全にスケルトンのパソコンを作っておられた。完全にスケルトンというのは「筐体がない」という意味で、あまっている部品を集めて作ったときに筐体がなかったので、紙の箱の上にマザーボードが載っているパソコン。

注19 ごいっしょする機会
2000年3月11日(土)に早稲田大学を会場に、1400名の参加者を集めて開催された、「インターネットと教育フォーラム2000」のスタッフとして。

注20 宇井さんの新妻の未歩さん
宇井さんと奥様の未歩さんは中学時代の同級生で、大学に入った頃からのお付き合いで、2000年2月14日に入籍されたそうだ。末永くお幸せに……。私が「カセットテープが動いてない!!」と青くなったとき、未歩さんが「電池の向き、逆になってません?」といってくださり、ビンゴだった。残りの人々曰く「自分の仕事道具の電池の向きを間違えるハズないと思った」。ユーザーというのは、開発者が思いもよらないことをするもんなんですよ(笑)。

注21 奥山先生の趣味
虫に関して、以下のページに詳しく紹介されていた。「虫屋の広場 The Insect Paradise」(http://insects.dsl.gr.jp/
また、海にもぐって、魚を取られるらしい。奥山先生の趣味はさらに幅広く、ペンネームでSF小説を書いて発表されているらしい。

注22 真鍋氏はいつも入ってる
「入ってる」とは「ログインしてる」という意味。

注23 雑誌などで紹介される
アスキー発行のBSD MagazineのNo.3(2000年3月発行)には、「ハッスル君」から派生した「でーもんくん」の型紙と作り方が紹介された。また、Linux Weekly News(http://lwn.net/2000/features/ohpa-ost/)には、田宮まやさんによって英語で紹介された。BSD MagazineのNo.4(2000年6月14日発行)に、OST Project報告を掲載。

注24 OST (Open Source Toys) Projectの人形たち
「ともこちゃん人形」、「なまず君」、「ハッスル君」の3つ。「なまず君」のモデルは、書籍「日本語全文検索システムの構築と活用」の表紙のなまず。「ハッスル君」のモデルは、書籍「ホップ!ステップ!Linux!」の表紙のペンギン。これらの人形の設計者は、片桐麻里子さん。

注25 応援
奥山先生のアイデアで、私はその日のメンバーから、激励メッセージ(サイン)の寄せ書きをいただいた。その中に「目指せ、連載100回!」というのがあった。

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Last modified: Mon May 21 14:19:50 JST 2007 by Tomoko Yoshida